世界で一番自分のことを信用できない

※こんな屑みたいな文章を書くのだって半月はかかりました。もう駄目です。

 

 あなたにとって「自分の意思を表明する」というのは、どれくらい難しいことだろうか。私にとってこれは要望を通すための押しが強い/弱いという類の問題ではなく、「意思を表明したその時の自分をどれくらい信じることができるか」という問題になる。1週間前には確かに週末に出かけたい気分だった。3日前には確かに部屋の掃除を済ませようと考えていた。今朝は晩御飯をきちんと食べるつもりだった。5分前には明日の労働に対する責任感に充ち、ベッドに体を横たえた。

 それで、今は?

 たった5分前の責任感を放り出し、生活に倦んでいる。散らかった部屋で深夜になるまでスマートフォンの画面からブルーライトを摂取している。思考はあちこちにさまよってしまうものだが、私のそれはあまりにも節操がなさすぎるように思う。特に意欲や希望などの前向きな感情は、私の脳裏を素通りしてどこかへ去って行ってしまう。その度に「去るくらいなら来るな」と文句を壁に吐きつつ無為に時間を過ごすのには飽き飽きしている

 数分前の「何かをしよう」という感情が嘘になってしまうから、社会生活において日々、他人か自分自身のどちらかを裏切り続けている。他人──特に労働で関係のある他人を裏切ると大変面倒なことになることを知っているので、何かをしたいと思っても簡単には口に出さないように生きている。自分の意欲を信じなければ無用なトラブルを避けることができた(と信じている)が、自分自身の意思を信じられないこと、自分自身の意思に裏切られることは、存外に虚無感が募ってしまうものだった。

 

 私には本当の意思がないから努力ができないのか、あるいは努力の辛さに負けて意思を貫き通せないのか。虚無感に襲われる夜には必ずこのことを考える。私にとっては日々の生活の何をするにしても努力が必要で、それはとても大変なことのように思えるのだ。それでも朝になれば、私は日々の細々した努力をしなければならない。出勤に間に合う時間に起きる。顔を洗い、綺麗に眉を書き、アイラインを引く。髪を整える。清潔な衣服に着替えて部屋のドアを開ける。私がなんてことない普通の顔をして労働できているといいなと考えている。私を「怠け者」と表した人たちの声を思い返している。

 

 一日の労働を終えてベッドに体を横たえる。近頃は楽しいことがあっても、いずれやって来る虚無の時間が怖くて集中できない。だからなるべく早く眠ろうとする。もう四半世紀くらい人生をやっているというのにこんな調子じゃあ、いつまでたっても怠け者以外の何者にもなれないんだろう。怠け者だって自分の意思くらい表明するだろうに、25歳の私はそれすら満足にできやしない。

それでも私はまだ文字と言葉をこねくり回している

 芥川龍之介の『河童』の中で、こういう台詞が登場する。

「元来画だの文芸だのは誰の目にも何を表はしてゐるかは兎に角ちやんとわかる筈ですから、この国では決して発売禁止や展覧禁止は行はれません。その代りにあるのが演奏禁止です。何しろ音楽と云ふものだけはどんなに風俗を壊乱する曲でも、耳のない河童にはわかりませんからね。」

 
 物語上、この台詞の主眼は音楽に係る部分だが、今、私の頭の中を支配しているのは前半部分だ。絵や文字が表現していることはだれの目にも明らかだと言う。芥川は自身がそう考えているからこそ、劇中の登場人物(正確には登場河童)に語らせたのだろうか。もしそうだとしたら、類稀なる才能で文字を魔力的なほど巧みに操ることができた文豪だからこその思想だと思う。

 近頃は「文字、弱いな」とばかり考えている。その弱さを明確に言語化することは難しいが──というより、そうした「言語化の難しさ」が「文字、弱いな」と考える理由の一つになっている。頭の中で蠢く何かしらを文字で表すことはとても難しい。ましてや完璧に思考を言語化するなんて不可能だ。自分で考えていることは自分にしか解らないという至極当たり前の話。しかしそうした当たり前が私を常に苦しめている。「私は本当はもっと素晴らしいアイデアを持っているんだ、あなたにもきっと面白がってもらえるのに…」という悔しさや悲しみが、文字を書きつけたり言葉を発したりした後すぐにやって来て、次第に虚無感に姿を変える。元より「自分で考えていることは自分にしか解らない」を本当に肝に銘じておけているなら虚無感を募らせることもないのだが、私はなまじっか文章のようなものを書けるせいで諦めがつかない。しょうもない往生際の悪さだ。
 更に厄介なことに、自分で満足できる程度に言語化ができたとしても、言葉の受け取り手が文意を汲めるとは限らない。今度は「読むことの難しさ」が私(たち)の眼前に立ちはだかっている。
 私が近頃感じている文字の弱さは、圧倒的にこれに由来したものが多い。

 私は文字を生業にしている。と言っても、製造業の会社である種の刊行物の発行責任を担っているというだけだが。弊社がどんなことを行っているかを社内・社外に説明する責任が私にはあり、限りある紙面に伝えなくてはならないことを一体どれほど詰め込めるのかを常に気にしている。読み物を作っているわけではないので、求められているのは叙事的な文章だが、私が身を置いている業界──先に述べた製造業界ではなく、私の所属する部署が引き受けている「サステナビリティ」という専門的な界隈では、鼻につかない程度の綺麗事を随所で抒情的に散りばめておくこともそれなりに必要だ。
 絶妙に相反する2つのニーズに応えるべく、面白くもない原稿を執筆している私を、まず「言語化の難しさ」が襲ってくる。それもまあ何とか下し、無事に刊行に至ったところで、「読むことの難しさ」を読者から叩きつけられる。既に書いてあることについて問い合わせがあれば、どう考えてもそうじゃないだろという理由でクレームを頂戴することもある。単に私の文章の出来が悪いということは勿論として、こうも「読んでもらう」ということは難しいのかと絶望する。
 そもそも今の時代、文章にわざわざ目を通してくれる稀有な人を有難く思わなくてはならないか?今時Youtubeで面白おかしい動画を見るのが流行りだし、Instagramでお洒落なストーリーを確認するのが日課だし、陰気めいた人が比較的多数生息しているTwitterでもバズるのはGIFや神絵師のイラストといった印象だ。私が発刊する刊行物も、人の手に渡ったところでそのままゴミ箱行きがほとんどだろう。

 視覚に訴えるものは強力だ。冒頭の台詞の通り、誰の目にも明らかなイメージだから。そして大概の場合で時間をかけることなく意味が理解でき、人々に共通した印象と個人それぞれの雑感の両方を抱かせる。華やかで、強烈で、素早い力を一目で叩き込まれたら、好んで活字を読む人が少なくなるのは自然なことだと思う。子供のころから読書が好きで、親の会話よりも書籍から言葉を取得した私でも、最近の絵画・映像の蠱惑的な力に魅了され続けている。
 「絵、強いな」
 私はそう思いながら退勤から就寝するまでの数時間をインターネットの海で無為に過ごしてしまう。
 そんな中で140文字以上の文章を読んで何かを見出そうとする人は、やっぱり物好きくらいの考えでいなくてはならないのだろう。単なる活字はもはや多数の人々の娯楽にはなり得ない。これからの時代にエンターテインメントのスターになりたければ、視覚に訴える要素を持つ娯楽を究めていかなくてはならないのだと思う。勿論、絵画や映像を制作するのにも産みの苦しみ──頭の中にある理想形に技術が追い付かないとか、当初の意図から外れた受け止められ方をするとかはあるだろうが、それを超えたところで帰ってくるリターンが文字のそれよりもきっと大きい。

 ここまでの文章についても勿論、私の頭の中にある考えの輪郭をやっとのことでなぞっているくらいものだ。時たま文章が意図と外れた方向に独り歩きしていくのを苦々しく見つめては、何度も無理やり軌道修正しながら書いた。そうした苦心惨憺にもかかわらず、相変わらず何も伝わらない文章が出来上がってしまったので、早くも虚無感に襲われている。芥川ならこんなことはなかったのだろうか。いや、恐らくは芥川も、その他の文豪も誰だって本当に完璧には言語化できていなかっただろうと思う。
 自分で考えていることは自分にしか解らないという至極当たり前の話。

人殺しの木偶がいる生活


 以下、2019年8月1日のTumblr投稿より。

 結局、昨年の誕生日から今まで一度も情緒不安定を発散していなかった。それすらも出来ないくらい情緒不安定だったとも言える。2019年も早いもので8月に入り、このブログの存在を俄かに思い出した。そして、2、3日前に見た印象的な夢を適当に書きつけるかと思い至った。夢の話なんてブログに書きつけるくらいが丁度良い。
 以下、夢の覚書き。

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 人を殺す木偶を会社の同僚と飼っている。木偶は痩せ細っていて、縦に長い姿をしている。乾燥しきって、ささくれ立った木目が本物の人皮にしか見えず、私はそいつをミイラと木偶の合いの子だと思っている。そいつは地面をゆっくり滑るように歩く。地面から微妙に浮いている筈なのに、脚を一応ゆらゆらさせるのが一等不気味だ。
 私たちはそいつを、どこかの建物の赤紫色っぽい部屋で飼っている。その部屋も奇妙だ。トンネルの様に奥行きがある。しかし使っているのは一つしかない入り口付近だけで、そこには女性のマネキンが乱雑に設置されている。恐らく人殺しの木偶の眼を眩ませるためだろう。
 そうして細心の注意でもって木偶を買っているのに、部屋には時たま本物の女性の死体が現れる。監視のためなのか、定期的に部屋を覗かねばならない私は、死体が現れる度に同僚に叱責される。同僚は私よりも随分年上の、声ばかりが大きい憎むべき女性だが、私は彼女しか木偶を御しきれないと認識している。だからひたすら彼女に従う。結果、私ばかりが部屋を覗いている。

 俄かに部署の新人と木偶と私で、スーパーマーケットのような場所にいる。案の定、木偶は逃走する。いつの間にか暗くなった店内で私は憎らしいあの同僚に電話をかけたが、内容は憶えていない。
 商品棚の隙間から木偶の横顔が見えたので、這って逃げた。棚の間の狭い通路には粗末な木の椅子が並んでいたので、その下をゆっくり、音を立てないよう懸命にかいくぐった。
 最後の椅子をくぐった時、真正面から人殺しの木偶がゆらゆら迫って来て、私は殺された。

 ──という私の夢と全く同じ夢の話を、とあるグループの一員がラジオ配信で話している。私は(現実においても)そのグループのファンで、自室のベッドでうとうとしながらラジオを聴いている。
 「それ本当?マジで怖いじゃん」グループの一人が言う。
 「怖いでしょ。汗びっしょりで飛び起きたわ」
 「どんな感じの奴だったか、もう少し聞かせてよ」
 次第に眠気が強くなり、彼らの声がもうほとんど聴こえない。ついに目の前が白くなって意識を保っていられなくなった頃、私に馬乗りになっている例の木偶と目が合った。
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 ここまで。私は文字通り飛び起きたが、その後は普通に労働の準備をした。それだけの話。

 

嵐の中で情緒の安定を求めていた


 以下、2018年8月23日のTumblr投稿より。

 今日は処暑、もしくは台風の特異日
 その名の通り、私の住む町には台風が到来している。窓を叩く風雨があんまり烈しいので、建物全体が獣の様にわなないており、読書にすら集中できない。仕方がなく、ぼうっとする。そこら辺に捨ててしまえるどうでもいい記憶か、どうしようもないトラウマばかりが目の前で踊りだす。
 そうこうしているうちに、今日が私の誕生日でもあったことを思い出した。途端に何もかもが嫌になった。誕生日の残り数時間を、暴風雨と共に無為に過ごすことになった自分が相当に哀れらしい。もう誕生日に特別な意味を見出す年齢でもないと思っていたので、多少の驚きも感じる。
 20代も折り返しに差し掛かったところで、いまだに誕生日を特別なものにしたいと欲求する人間が、どのくらいいるだろう。私もその一人だったわけだが、意外と多いのかもしれないと思う。人々が薄氷の上で冷や汗をかきながら必死に行進しているような、この社会では。自分こそは隊列から抜け出したい/抜け出せると考えている人間は、年をとるごとに「自分は冷や汗をかきながらでも他人に従い大人しく行進するしかない」と思い知らされる。そうした中で、物を買いたいとか、素敵な恋人が欲しいとか、分かりやすい短絡的な欲求は気休めになる。「誕生日は自分にとって特別な良い日であってほしい」という凡愚な欲求も、また然り。 
 凡愚だろうが何だろうが、欲求不満のせいでこれ以上鬱屈になるとヤバい。そこで急遽「お気持ち発散機」としてのブログを開設することにした。確固たる意味も意思も存在しない、よく分からない思考を書き留めておくだけのブログ。情緒不安定を文章にすることで情緒安定を図る。また、ブログを開設することで、結果として誕生日を多少特別な日にすることができたと言えなくもない。

 しかし無理にでも情緒を安定させたところで、これからもずっと意味のないことを積み重ねていくばかりだと思うと、また色の濃い嫌気が差す。
 暴風雨は相変わらず窓を乱暴に叩き続けている。