いつか素敵な浴衣を買おう

小学生に上がったばかりの頃だったと思う。
祖母が浴衣を買ってくれると言って、祖母と母と私の3人で船場センタービルに出かけた。低い天井の古ぼけた店をいくつか巡って、黒地に苺が天の川のごとく散りばめられている柄の浴衣を私は見つけた。黒いのも天の川みたいになっている苺も私の為にあると考えたくらいにその浴衣を気に入ったが、紫陽花やら蜻蛉やらといった古典柄を私に着てほしかったのだろう祖母は、困り眉の笑顔で私と浴衣を見るばかりだった。その笑顔は私に祖母の願望を瞬く間に理解させた。なのに母が「それはおばあちゃんが嫌がってるから」としきりに耳打ちしてくるのが腹立たしかった。
結局、祖母と母が勧めた浴衣を買ってもらった。藤色っぽい浴衣だったと思うが、忘れてしまった。心奪われたあの浴衣じゃないなら他のものなんてどうでもよかったし、朝からずっと歩き通しで疲れていたし。脳裏にこびりついているのは、満足げに微笑む祖母と礼を促す母の声色だけだ。

その晩、買ってもらった浴衣を家で着たところ、丈が間違っていたか不良品だったかで駄目だという話になった。電話口の祖母が「そうかあ、あかんかったかあ」とひどく残念がったので、私もそれに合わせてなるべく悲しそうに話した。今のを返して、代わりのもんを買ってあげよな。祖母の親切心を裏切ってはいけないと思ったが、正直、薄暗い天井が垂れ込めた通路にびっしりと店が並ぶあの建物をもう一度訪れる気にならなかった。次の土日は用事があるとかなんとか言って、あとは母に電話を替わったように思う。祖母と母がそれから何を話したのかは知らない。

次の次の日のことだった。学校から帰ったら、あの、苺の天の川の浴衣が和室に掛けてあった。興奮で視界がわあっときらめく、魔法めいた瞬間は初めてだった。この浴衣がどうしてここにあるのかを問う私の大きな声に、リビングにいた母は「おばあちゃんが一昨日の浴衣の代わりに買ってきてくれた」と応えた。
しかし、その声のくっきりとした不機嫌さ!恐る恐るリビングに向かえば、案の定難しい顔をした母がダイニングテーブルに鎮座していた。母は、私の「わがまま」を汲んだ祖母のことを気にかけているらしかった。途端、さっきまで確かにきらめいていた視界が端からちろちろと煤けていくくらいに、「私は何か取り返しのつかないことをしでかした」という後悔に思考を支配された。そうしないように気を付けていたが、私は祖母の親切心をいつの間にか裏切っていたのだと思った。
外が完全に暗くなってすぐ、祖母から電話がかかってきた。電話口の祖母は相変わらず優しかったが、私は恐る恐る謝罪の言葉を呟くのに精いっぱいだった。

 一度は心を奪われたあの可愛い浴衣は、私がしでかした不義理の象徴になり下がった。優しい大人たちの期待を不意にしたこと、しかし幼心にどこかで「そう思わされてしまった」ことへの幽かな怒りを抱いたことをどうしても思い出してしまうので、浴衣には一度きりしか袖を通していない。今や、所在も知れない。
そしてこの思い出は、大人になった今でも私のか細い神経に絡みつき、折に触れては喉元まで這いずり出て、首を締め上げる。ただ、せめて、孫の謝罪に祖母がどう返したのかを覚えていれば、もしかしたらこんな風にはならなかったのかもしれないとばかり考えている。