毎日の終わりに考えていること

 自分の言葉が年齢を重ねるにつれてこんなにも薄っぺらくなっていくということを、毎日強く強く実感している。世間一般には年を取った人の言葉が(本質的に優れているかどうかはともかくとして)重用され、若い人の言葉は軽んじられるものなのだろうが、私の場合、もうずっと逆の感覚に脳を支配され続けている。
 この感覚に悩まされるのは第一に仕事の時、自分のしている事の価値を相手に納得させなければならない場面だ。初めは年上の男性相手に話しているから相対的に自分で自分を委縮させてしまって、言葉にも自信がなくなるのだろうかと考えていたが、どうもそうではないということに私生活を通じてすぐに気付いた。とにかく何を話しても、書いても、薄っぺらい。偽物の言葉がうようよしていて気分が悪くなる。仕事の時は義務感で何とか話しきっても、私生活で友人に自らの思考を自由に語る時は途中で耐え切れなくなって話すのを止めてしまう。Twitterで呟かなくなる、iPhoneのメモを消す、手帳を破り捨てる。後はベッドに潜り込んで天井を見つめている。


 よく考えてみろ。


 言葉を放棄したからと言って思考は止まらない。豆電球の鈍い橙色の光に照らされた天井、そこに思考が映し出されて揺らいでいる。自分が今考えているこのこと、言葉にしてしまうから陳腐になるのか。それとも、全て言葉にするのも陳腐なものなのか。いずれにせよ、私は私に備わっていた唯一の(本当にただ唯一の)表現方法が日ごと駄菓子の包み紙の様に薄く、軽く、無視され棄てられるべきものとなっていくのをぼうっと眺めている。なぜこうなってしまったのかの結論に至るのは簡単だ。言葉だけじゃなく私自身の全てが陳腐だからだ。元々生まれながらにしてそうだったのか、それとも感覚通り年齢を重ねるにつれてそうなっていくのかはどうでもいい。とにかく今の私が薄く、軽く、無視され棄てられるべきものに違いないのだ。お前の言葉が駄菓子の包み紙なら、お前自身は黄ばんだ汚水に濡れそぼってとろけたティッシュペーパーじゃないかと声がする。この声はいつか聞いたことがある……。