『砂の女』を読んで

恐らく、主人公の仁木順平に自身の面影を見る人は少なくないだろう。
妻があり、職があり、傍目にはそう悪くない人生を送っている男。しかし退屈で単調で、周りの人間の些細な嫉妬や野卑にうんざりする。とは言え今更異なるたつきの道を切り拓く覚悟もなく、趣味の昆虫採集であわよくば後世に名を遺したいと、その程度のあえかな自己実現欲求を抱いている。仁木順平はあの砂の集落を訪れることがなければ、内心で愚痴りつつも最期まで単調な生活に身を投じたままだっただろう。彼のような人間(そして私たちの大多数)はきっと、ある日強制的に何かを変えさせられることしかできない。

もっとも、強制的にもたらされる変化が幸福なものである保証はどこにもなく、むしろ今まで見たことのない昏い空がその者の頭上に覆い被さるものだ。仁木順平が突如引きずり込まれた、砂の坩堝の底で得体のしれない女と強制労働させられる生活。しかしここで重要なのは、幾度も脱走を試み、その悉くが失敗した結果、彼は最終的に女と生活を受け入れたことだ。

無味乾燥の苦しい生活において、隣にいる女は敬虔な修道女のような、あるいは白痴の女神のような、ファムファタルだ。依りかかり、かつ依りかかられる柔らかな存在。彼だけが彼女を慰め、彼女だけが彼を慰める。仁木順平は今までの生活でそのような相手を見出すこはなかった。彼女は明らかに砂の町の象徴ではあるが、きっと仁木順平の内側にある乾いた部分にぴったりと嵌る部品でもあった。彼女の存在が彼の怠惰心――与えられた境遇に最終的には甘んじてしまう緩慢な諦め――をより強固なものにしてしまったように思える。無論、彼の脱走計画が成功する可能性もあったわけだが、その場合でも彼は女のことを脳裏に思い描き、彼女が欲していたラジオと鏡を送ろうとしていた。単に情が移ったと言えば分かり易いが、実際のところは女の存在がすでに仁木順平の精神に深く深く滲み込んでいたことの証左であるように思う。彼は遅かれ早かれいずれ砂の集落のシステムに組み入れられることを受け入れていただろうが、女がその時を早めたことは間違いない。

無為な生活を甘受することも、絶望的な状況を飲み込むことも、畢竟、同じことだ。ましてや、自らを慰めてくれるものの存在があれば大した労力はいらない。労働、物欲、趣味、宗教、家族、恋人。きっと私たちは誰しもが「女」に代わるものを持つことで日々をやり過ごしている。いつか「女」そのものが現れた時、私たちは「女」に依りかかられる心地よい負担のみを心の助けとして、緩やかな諦めに全身を任せるのだと思う。そして、異常はゆっくりと日常の色に塗り替えられる。