初秋、雑感

 生まれてこの方不安定な日々しか過ごしたことがなく、他人よりも何よりも自分が最も信用ならない心持ちで労働その他、人生の義務というやつを必死にこなしている。「意外と生きられるぞ」と思う日もあるにはある。が、前提として「だから何?」という生存に対する虚無感に心が沈んでいる。全ては徒労に過ぎないと誰かがいつも耳打ちしてくる。

 今年も夏が人間たちに容赦なく熱波を浴びせ、それなりの人数を殺してから去っていった。私たちの何もかもを突如さっぱりと洗い流す死が夏にはあるような気がする。いや、実際のところ暑さ寒さで死ぬなんて身悶えする苦しさだろうし、それに限らず死の瞬間は多少の苦痛を伴うものだろうし、別に春夏秋冬いつだって人間は突然死ぬけど、私は特に夏の死に夕立のような印象を抱いている。揶揄われているくらいに高い空から、透き通った致死性の美しい針が降ってくる。直下に佇む者の都合などお構いなしに、じりじりと知らぬ間に命が削れていって、ふっつりと形を無くす。そんな盛夏の日を想像してみる。最も死臭が濃い季節は夏だと友人たちと語ったことがあったっけ。今年はコロナ禍も相まって、同じ印象を抱く人が多かったんじゃないかと思う。

 それなりに歳をとり、「生きることも死ぬことも偶然の産物」というありきたりな教訓を噛み締める機会が増えてきた。高級な食事、旅行やエンターテインメント、服、靴、化粧品その他、車、家、所帯やペット……全ては生存に、あるいは死に無理やり意味を持たせるための短期目標に過ぎないことを思い知らされる。しかし短期目標すら持つことが叶わず「ただ生きるために生きている」人も少なからず存在しているはずで、他ならぬ私こそが今段々とそういう人になりつつあり、偶然に死ぬのが先か、シンプルな生存に耐えられず幕切れを選ぶのが先か、毎夜寝苦しいベッドの上で逡巡している。
こうした苦悩(本当は苦悩と呼ぶほど深刻なものではないことも私は知っている)を何かしらの芸術表現に昇華し、他人を擬似的に救うことを夢見た時期もあった。それも今やインターネットに擬似的な救いが腐るほど満ちていることを思うと、必要のないことだ。

 今年の夏もなんとなく生き永らえてしまった私は、秋も冬も春も生き永らえることになるんだろうか。早急に意味を作り出す必要がある。意味を作り出せなかった時……幕切れの時を思うと手指が熱を失うほど恐ろしい。その冷たさがまだ、私を安堵に導いている。